混浴に見た日本人の特殊な感性


いきなりですが、江戸時代の大衆浴場は、
混浴が普通だったことを
みなさんはご存じでしょうか?

武田鉄矢さんのラジオ番組
「今朝の三枚おろし」で聞いた話ですが、
ちょっと信じられませんよね。
地方に行けばそういう温泉が残ってはいますが・・

当時の日本を訪れた外国人が、
大変衝撃を受けたという記録が、
いくつも残ってるそうです。
中には日本人を野蛮な国民だと、
非難する人もいたそうな。

無論、日本人は野蛮な国民ではないですし、
スケベな国民でもありません。
ならばナゼ、昔の日本人は、
風呂で異性に裸を見られても平気だったのか?

武田鉄矢さんは、
「昔の日本人は見えてるものを
見えてないことにできる特殊な感性があった」
と分析します。
一体どういうことでしょうか?
昔こんなエピソードがあったそうです。

外国人男性が山道を歩いていた時、
険しい場所で立ち往生する、
地元の娘とすれ違いました。

男性は紳士に娘の手を取ってあげたところ、
娘はとても恥じらいながら、
礼を言い、去って行きました。

そして、山を降りた麓の村で、
その男性は衝撃のシーンを目にします。

なんと、先程の娘が湯に浸かりながら、
満面の笑みで、
こちらに手を振ってるではありませんか!
勿論、裸でです。
その外国人男性は唖然としました。

なにせ、さっき手を繋いだだけで、
頬を染めていた乙女が、
今、胸をあらわにして、
無邪気に手を振っている訳ですから。

もしこれが、
当時驚くほどの行為でないならば、
ちょっと、
今の私達には考えられない感覚ですよね。




現代社会における性道徳は、
キリスト教によって作られた、
と聞いたことがあります。

ということは、まだキリスト教や、
西洋文化が浸透していない日本では、
恥ずかしさの対象が、
現代とはかなりズレていた・・?

いやしかし、先程の娘は、
町の中でも服を脱げる訳はあるまいに・・
ということはやはり、

風呂に入っている時限定で、
裸が見えてるのに見ていないことにできた、
と考えられるんです。
ん~・・

風呂に入る行為は当たり前、
裸になって身体を洗うのが目的であって、
いやらしさとは全く別物、
だったということですかねぇ?

男性が授乳する女性の乳房を見ても、
さして興奮しないのも、
これに似た感覚なんでしょうか?

更に武田鉄矢さんは、
伝統芸能の舞台に存在する「黒子」も、
見えてるのに見えてないことにしている、
好例として挙げてます。

確かに黒子って、メッチャ見えてますが、
演じる側も観る側も、
見えてないことにしないと舞台が成立しません。

そこらへん、
外国の方には珍しく映るみたいですね。
中には黒子を
忍者と勘違いする方もいるみたいで・・

歌舞伎役者の方が言ってましたが、
観る者に黒子の存在を完全に忘れさせるのが、
演者の腕なんだそうです。
だから黒子は必要なんだと。

混浴にせよ黒子にせよ、
武田鉄矢さんの指摘が的を得てるならば、
日本人はかなり特殊な感性を持つと言えます。

見えないもの見えたように形容する感性は、
よく見受けられますが、
見えてるものを見えてないことにする感性は、
なかなか珍しいですからね。

その両方を持っていたからこそ、
日本の文化は世界に類を見ないはど、
特異に洗練されたとも思うのです。

結論。

日本人は目的に応じて、
見えてるものを見えてないことにできる、
高い精神性を持ち、
それはたとえ、異性の裸を見ても、
決して揺らぐことはない。

さぁ、この仮説、
みなさんはどう思われますか?

実は大して、
深い話ではないかも知れませんけどね・・
武田鉄矢さんの鋭い着眼点に、
私もノッかっちゃった次第です。

今回も最後まで読んで頂き、
大変ありがとうございました。