吉田拓郎本人が語るデビュー当時のレコーディング裏話

日本歌謡界の大御所、吉田拓郎さんは数々の名曲を生み出してきた訳ですが、その裏には才能あふれる技術者達の支えがあったのは言うまでもありません。

今回はその中でも特別な人物、松任谷正隆さんとラジオ番組で対談した時の、吉田拓郎さんの話を一部紹介します。

対談は二人が初めて出会った時の話から、当時のレコーディング裏話へと展開していくのですが、これがとにかく興味深い!それではどうぞ!

※青字は説明用のウィキペディア、または実際の音声を伝えるYouTubeがリンクされています。

松任谷)だから、そういう意味では吉田拓郎が、僕の初めてのレコーディング。

拓郎)いや俺ね、今日ね、話したいこといっぱいあるんだけどさ、いい?

松任谷)言って!

拓郎)あのね、広島からさぁ、それこそ海のものとも山のものともわかんないガキんたれがさぁ、東京へ出てきて・・まぁ夢は大きいもの持ってたんだけど、

最初に入ったとこがさぁ、通信販売のエレックレコードっていうとこだったわけ。

で、マンタ(松任谷)に最初会ったのは、そのエレックのアルバムなのよ。アレ、「人間なんて」は。

松任谷)そうだよね、知ってる知ってる。

拓郎)それで加藤和彦がプロデュースというか、いろいろセッティングしてくれたんだけど、

それまでねぇ、そこのエレックというところは、紹介してくれるミュージシャン達がジャズのおじさん達とか、当時の俺にとってみると、なんか、そういう古い人なわけ。

そういう人達に、あの頃は譜面なんて書けないし、ギターをこうやって弾きながら曲を聴かせると、スッゲーびっくりするような訳の分からないアレンジになって帰ってくるわけ、それが。

それまで僕は、広島でR&Bのバンドずっと組んで岩国のキャンプとかで演奏してたから、そっち系のエレキギターの感じで、ロックだったんだけど、

当時フォークソングが流行ってて、フォークの中に入いちゃって・・

で、フォークギターって弾けないのよ、俺。

松任谷)あー、そうだったんだ。

拓郎)うん。よく分からないんだけど、エレックは吉田拓郎をフォークとして売るということにしたんだよ。

俺はなんのことか全然わからないで、とにかく会社の言うとおりに動いてたわけ。

アレンジとかも一番最初に出した「青春の詩」とかいうアルバムがあるんだけど、ヒドイの(笑)

今は絶対聴きたくないアルバムが出てるんだよ、一枚。

それで、そのことをラジオ関東という放送局が当時あって、そこで加藤和彦と会ったんだよ。

その時、加藤和彦のこと俺は知ってたから、超有名だったから。

で、加藤君に相談したんだよね。

俺まだいっぱい曲書きたいんだけど、良いバンドとか、アレンジとか、そういうの加藤君のとこはどういう風にやってるの?

って言ったら、「俺、手伝おうか?」って言ってくれたのが最初。

松任谷)そうなんだ。

拓郎)それで、あの時に僕、ちょうどエレックでもう一枚アルバムを作るって言われてて、

「結婚しようよ」とか「どうしてこんなに悲しいんだろう」なんかをアルバムに入れるのを、その時に加藤君が呼んできたのが君達だったわけ。

でも全然知らないの、松任谷のことも。林立夫のことも誰がなんだか知らないんだけど、

ただ、若い人がいっぱい来てくれて・・それまでオッサン達とやってるから、当時僕20ぐらいだから、歳は。

すごいなんか、若い人達と一緒にやれるというのがすごい嬉しくて、

その時から僕は、レコーディングっていうのは、やっぱコッチだよなとか思って。

そういう意味でいくと、レコーディングはこうやって若い連中同士で、分かりあう、話が通じる連中とやるのが面白いんで、良い音もできる、というのを加藤和彦に教わって・・

話は長くていい?

松任谷)いいよ(微笑)

拓郎)ほいで、その中で「どうしてこんなに悲しいんだろう」という曲を・・

僕はあの頃、その他の曲も後で話すけど、コード進行ぐらいしか書けないから、譜面は。

それをこう渡して、「どうしてこんなに悲しいんだろう」というのを加藤和彦のアコースティックギターが始まる、それで間奏を松任谷が弾いてくれたの。

そしたら、その間奏がぶっ飛ぶぐらい・・その場で弾いたんだよ、マンタあの時。

その場で弾いたのに、もう、家で作ってきたかのような、すっごい素晴らしいメロディだったわけ、間奏が。

松任谷)そんな褒めてもらった印象ないんだけど(笑)

拓郎)俺、その頃まだわかってないのよ、それが。

それで、その有り難みが後にわかるんだけど、

その「どうしてこんなに悲しいんだろう」のオルガンソロ、

それから、そのあと俺はレコード会社をCBSソニーに移るんだけど、そこ行ってまたアルバムを作ったりしてマンタ達に手伝ってもらうんだけど・・

その中で「今はまだ人生を語らず」というアルバムを作った時に、その中で「人生を語らず」という曲を弾いてた時も譜面はコード進行だけを渡して、松任谷がだいたいヘッドアレンジとかしてくれたわけ。

で、渡したら、松任谷が平野兄弟というドラム、ベースに・・

松任谷)へぇー、懐かしいなぁ。

拓郎)平野兄弟にこういうリズムでやれ、って言ってくれて、

それでギターは矢島だったんだけど、矢島に「こういう風にワウワウ使ったらどうだろう?」とか言って、

ほいで間奏を、コード進行しか渡してないのに、松任谷がソリーナっていう楽器で、「人生を語らず」の間奏を弾いたの。

これがまたねぇ、どうしてこのメロディが?・・その時代だよ。

どうしてこのコード進行でそんな素敵なメロディがポンッて出てくるのかが、当時の僕にはさぁ、奇跡なわけ。

スゴいことをやってるわけ、松任谷正隆という人が。

だからその、「どうしてこんなに悲しいんだろう」、この「人生を語らず」の間奏に関して言うと、50数年経った今でも、同じメロディで俺ライブやってんだよ。

松任谷)へぇー

拓郎)誰もその間奏を変えられないの。

松任谷)ターン、タン、タン、ターン、ターン、タラララララ・・(間奏のメロディ)

拓郎)うん、あれ。変えられない、誰も。

どんなアレンジャーとか、どんなバンドとか、色々ツアーでバンド変えたり、色々ミュージシャンも変えたけど、

みんな結局あそこに行き着いて、あのメロディで今でもライブをやってるというのは、

50何年間さぁ、あの松任谷正隆が弾いたフレーズを誰も変えられないのよ。

すごくない?

松任谷)いやぁ、有り難いね。でも、最初のオリジナルってそういうもんだよね、なんか。

拓郎)そこはでもねぇ・・こんなの僕ないもん。

以上です。

いやぁ、吉田拓郎さんの松任谷正隆さんに対するリスペクトが半端ないですね。聞いてて清々しいです。

実は私も松任谷さんのアレンジ能力は昔からスゲーと思ってました。

特にアルバム「明日に向かって走れ」のサウンド世界はホントたまりませんよ。

それでは今回は、これにてサヨナラです。

最後まで読んで頂き、大変ありがとうございました。

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